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「こんにゃく」について「こんにゃくパーク」にて学ぶ

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去る9月7日に、
群馬県甘楽町にある
こんにゃくパーク」に
お出かけしました。

工場見学にて、
「こんにゃく」について
多くを学びました。
群馬県民でありながら、
全国生産量1位のこんにゃくについて
知らない事がたくさんありました。

はじめに

こんにゃくパークでは、
一日に約80万食の
こんにゃく製品を生産しています。

そんな、こんにゃくパークの
工場見学にて学んだ事を以下に
まとめてみました。

なるほど!こんにゃくの歴史ロマン

こんにゃくはどのようにして日本に広まり、
庶民に食べられてきたのでしょう?

大陸から日本にやってきました。

諸説ありますが、2つの説が有力です。

  1. 【奈良時代】
    仏教と一緒に中国から伝わったという説
  2. 【縄文時代】
    東南アジアから島伝いにサトイモと一緒に伝わったという説

日本では鎌倉時代から食べられていました。

昔は貴重な食べ物でしたが、
栽培・製法の発展とともに
一般的になり、全国へと広まりました。

鎌倉,室町,安土・桃山時代

鎌倉時代 室町時代 安土・桃山時代
位の高い人たちに
食品として広まりました。
僧院などで精進料理や
おでんに使用されました。
織田信長がこんにゃくを
作らせました。

江戸時代

新しい製法技術が発見され大衆化が進行、
身近な食べ物になりました。

水戸藩による栽培奨励

江戸に専売所、大阪に特約商人を置き、
藩の専売品として栽培奨励することで、
水戸産こんにゃくの名声を高めました。

武士の商法とはいえ、品質を落とすものは入牢を申しつけるまで手厳しい取り締まりをしたと言われます。万延元年(1860)3月桜田門外井伊大老を襲った水戸藩士らの行動資金はこんにゃくを扱った商人たちが貢いだものと言われています。

水戸藩による栽培奨励 (konnyaku.com)
粉こんにゃく製法の発明

水戸藩の中島藤右衛門なかじまとうえもん氏が、
こんにゃく芋を粉末状にする製法を発明。
貯蔵・輸送が簡単になり、
全国で一般庶民にも広まりました。

中島藤右衛門なかじまとうえもん

なにげなく食べられているこんにゃくですが、実はこれが普通に食卓に並ぶようになったのは、江戸時代の水戸藩の農民、中島藤右衛門の功績なのです。これが一般人の家庭でも食べられるようになったのは江戸時代の元禄時代の頃です。水戸藩の常陸久慈郡諸沢の農民中島藤右衛門が1776年(安永5年)に腐りやすいコンニャクの生いもを輪切りにして乾燥し、水車で粉にして、長期保存するという製法を確立します。長期保存と軽量化に成功した中島藤右衛門の功績によって、こんにゃくは水戸藩の特産物として、江戸で流通するようになるのです。

こんにゃく | 水戸の観光・名所・名物を巡ってみよう| まいぷれ[水戸市] (mypl.net)

明治~現代

群馬県が栽培・生産の中心地に。
健康食品として親しまれるようになりました。

活発な流通・生産

明治維新によって水戸藩がなくなり、
生芋を粉にする技術が全国に広がりました。

最適な地・群馬県での発展

栽培はもちろん製造技術面でも優れていた
群馬県が中心地となり急速に発展をとげました。

参考 : こんにゃくパーク 工場見学 パネル

植え付けから収穫まで

こんにゃく芋が立派に成長し、
出荷するまでには2~3年かかります。

通常は2年生~3年生の
こんにゃく芋を秋に出荷します。

3年生2年生1年生生子きご
秋に収穫、出荷秋に収穫、 冬に貯蔵、
翌春に植え付け
秋に収穫、冬に貯蔵、
翌春に植え付け
春に植え付け
こんにゃく芋の成長

春に生子きご(種芋)を植え付けし、
育てながら増やしていきます。
秋になったらいったん収穫し、
冬場は5℃以下にならないよう室内で貯蔵。
春に再び植え付けて育てる事を繰り返しています。

参考 : こんにゃくパーク 工場見学 パネル

こんにゃく芋の種類

既存の品種

在来種日本では古くから栽培されてきた品種。
早生で、球茎の肥大性は並、生子の着生量はもっとも少ない。
支那しな中国から原料用として輸入され植えたことが栽培の発端であるといわれる。
もっとも晩生で、出芽期はおそいが、出芽して開葉するまでの期間が短い。
備中びっちゅう備中種という名称は関東地方でつけられたもので、
各地域によって違った名称を持つ。
在来種とともに古くから国内で栽培されてきた品種。
中生であるが、出芽期、開葉期は早い。
球茎の肥大性が高年生になると著しく低下するのが特徴。
参考 : 群馬県昭和村公式ホームページ

育成品種

群馬県では品種改良でも功績をあげています。

はるなくろ群馬県農業試験場で支那種を母とし在来種を父として交配し育成したもの。
中生で、球茎の肥大性は各年生を通じて高い。
生子の着生数は並であるが、在来種よりも大粒。
あかぎおおだま群馬県農業試験場で支那種を母とし
在来種の1系統である金島在来を父として交配し育成したもの。
中生。萌芽性がよく、出芽期、開葉期が早い。
球茎の肥大性は各年生を通じて高く、特に高年生での肥大が優れる。
みょうぎゆたか群馬県農業試験場で支那種の自殖育成系統である群系26号を母とし
支那種の1系統である富岡支那を父として交配し育成したもの。
支那種並の晩生。萌芽が遅いため、出芽期、開葉期は遅れる。
球茎の肥大性は各年生を通じてはるなくろ並で、
支那種、あかぎおおだまに比べると低い。
みやままさり支那種を母、備中種を父とした群系55号を母とし、
在来種を父として群馬県農業試験場で交配し育成したもの。
萌芽速度が遅く、出芽期、開葉期とも晩である。
成熟期は10月中旬であかぎおおだま並の中生である。
1年生に見られる2次葉の発生は少ない。
参考 : 群馬県昭和村公式ホームページ

こんにゃく芋の生産量

群馬県が全国1位の生産量を誇る「こんにゃく」は、全国トップクラスの日照時間、水はけのよい土壌など群馬の恵まれた気候と土壌により、渋川市、昭和村をはじめとした 群馬県北部エリアが県全体のこんにゃく芋の生産量の75%を占めます。日本一の産地を支えるこんにゃくいも品種は「あかぎおおだま」で病気に強く、県内生産の約8割を占めています。

どうして群馬県は日本一なの?

日本の食卓で食べられるこんにゃくの多くが
群馬県で作られています。

理由1 栽培に適した土地

良質な群馬の土

栄養分が豊かで排水性のよい群馬の土。
また、夏の気温上昇が少ない山間傾斜地が多いことも、
こんにゃく芋の栽培に適していました。

急流を利用した水車

下仁田より西側の山間急流と水車を活用した
自動製粉加工業が盛んになるにつれて、
こんにゃく芋の栽培は下仁田町を中心に広がっていきました。

栽培の立役者

明治16年に月形村 (現 南牧村)の茂木平八氏が、
こんにゃく芋の栽培を始めたといわれ、
「こんにゃく平八」の異名をもったと伝えられています。

平八は栽培するだけでなく、生産の効率を実践して見せ地域の風土を上手に活用し、種イモを貯蔵する技術で年々倍の作付け面積を増やし、こんにゃく作りの有利さを実践、奨励しています。農民もこんにゃく栽培の利益を認め作付けに勢を出し、南牧村地方を一大産地にしました。平八の栽培法は冬の間は種イモを凍らせないように貯蔵し、春に植えつけて効率化を図りもう一人のこんにゃく名人、斎藤周蔵の精粉づくりに学び、栽培と製粉を同時に実施し普及したのです。栽培に適した水はけのいい傾斜地と水車を利用した製粉の水流、良質の精粉を作るのに必要な荒粉の乾燥を上州名物のカラッ風を利用して、こんにゃくの一大産地として発展させ「蒟蒻平八」と呼ばれる所以ですね。

こんにゃくのコラム VOL 13 上州名物、蒟蒻平八とカラッ風

理由2 水車を改造して製粉が盛んに

明治時代、富岡市の篠原粂吉しのはらくめきち氏が、現在の南牧村にて、
改造した水車でこんにゃく芋の製粉をしたのが、
製粉企業のはじまりと言われています。

篠原粂吉といえば、茨城県からこんにゃくの乾燥・精粉技術を南牧村に伝えるため、同地の斎藤周蔵という技術者を招いた人物としても有名です。

ひとりごと ~気の向くままに~: 繭・製糸・風穴 (geogunma.blogspot.com)

理由3 工業技術が盛んな群馬県で花開きました

明治時代から富岡製糸場が操業していたように
群馬県には進んだ工場技術がありました。
こんにゃくも当時の最新技術により
大量生産できるようになりました。

参考 : こんにゃくパーク 工場見学 パネル

余談

こんにゃくパークの工場見学では
パネルを見ながら楽しく学べるのですが、
写真のような「うさぎさん」を見つけてね♪
なんて演出もあったりします。
(パネルか壁のどちらか?)

この「うさぎさん」、
正式名は「月野マナン」ちゃん。
お料理、おしゃれ、こんにゃく大好き
元気いっぱい 5歳の女の子。

最後に

あなたも
「こんにゃく」について
色々と知りたくなりましたら
こんにゃくパーク」を
訪ねてみてはいかがでしょう?

貴重なお時間を割き、
最後まで
ご高覧いただきまして
有難うございました

「こんにゃく」について「こんにゃくパーク」にて学ぶ